五百羅漢寺の寺歴五百羅漢寺(ごひゃくらかんじ)は東京都目黒区下目黒にある寺院。宗派はかつて黄檗宗だったが現在は浄土宗系の単立。山号は天恩山。開基は松雲元慶、開山は鉄眼道光、本尊は釈迦如来。300体以上の羅漢像を祀っている(当初は536体あった)。当初は本所五ツ目(現在の東京都江東区大島)に在り、徳川綱吉や吉宗が支援したが、埋め立て地にあったためか度々洪水に見舞われて衰退し、明治時代に目黒の現在地に移転した。 |  |
五百羅漢寺 松本元慶による創建五百羅漢像は開基の松雲元慶(1648 - 1710)が独力で彫り上げたものである。松雲は京都の出身で、「鉄眼版一切経」で知られる黄檗宗の僧・鉄眼道光に師事した。松雲はある時、豊前国の羅漢寺(大分県中津市本耶馬渓町)の五百羅漢石像を見て、自らも五百羅漢の像を造ることを発願した。彫像は当初は536体あったが、近代以降、寺の衰退時に多くが失われ、羅漢像287体を含む305体が現存している。 |  |
五百羅漢寺 象先禅師による伽藍整備3代住持の象先元歴(1667 - 1749)は、羅漢寺中興の祖とされており、彼の時代に大伽藍が整備された。象先は正徳3年(1713年)に羅漢寺住持となり、本殿、東西羅漢堂、三匝堂(さんそうどう)などからなる大伽藍を享保11年(1726年)までに建立している。三匝堂は江戸時代には珍しかった三層の建物で、西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所の百か寺の観音を祀ったことから「百観音」ともいい、その特異な構造から「さざえ(さざゐ)堂」とも呼ばれた。建物内部は螺旋構造の通路がめぐり、上りの通路と下りの通路は交差せず一方通行となっていた。三層にはバルコニーのような見晴台があった。松雲元慶の造立した五百羅漢像は本殿とその左右の回廊状の東西羅漢堂に安置され、参詣人が一方通行の通路を通ってすべての羅漢像を参拝できるよう工夫がされていた。 |  |
五百羅漢寺の衰退と復興 五百羅漢寺は安政2年(1855年)の安政の大地震では東西羅漢堂が倒壊するなどの大被害を受けた。明治以降寺は衰退し、明治20年(1887年)には本所緑町(東京都墨田区緑4丁目)に移転。さらに明治41年(1908年)末に現在地の目黒へ再移転した。この間、明治23年(1890年)にはチベット探検で知られる河口慧海(1866 - 1945)が当寺に住している。その後、寺は無住となった時期もあり荒廃していたが、昭和13年(1938年)安藤妙照尼が入寺して、第二次大戦前後の困難な時代に寺を維持した。安藤妙照尼は新橋の芸者出身で、芸者時代の名を「お鯉」といい、総理大臣桂太郎の愛妾として知られたが、後に仏門に入った。本堂脇にある「お鯉観音」は彼女にちなむものである。貫主日高宗敏の尽力によって五百羅漢寺の境内が整備され、近代的なビルに生まれ変わったのは昭和56年(1981年)のことである。 |  |
五百羅漢寺の境内 五百羅漢寺の境内は大部分が近代的なビルになっている。公道に面して鉄筋コンクリート3階建てのビルが建ち、この中に寺務所、書院、聖宝殿(しょうほうでん)などのほか、目黒霊廟(一般向けの屋内墓所)がある。聖宝殿には寺宝や歴史資料が展示されている。屋上には安永3年(1774年)銘の梵鐘(平和の鐘)や、悪夢を食うとされる獏王の像などがある。上記ビルの右脇に本堂へ上る階段がある。階段右手には飲食店の「らかん亭」と「らかん茶屋」があり、階段を上った先の右側には「コ」の字形平面の羅漢堂、その先に本堂がある。本堂には本尊釈迦三尊像を中心に羅漢像などが安置され、残りの羅漢像は羅漢堂に安置されている。 |  |
五百羅漢寺の羅漢会館 羅漢会館は、個人葬から社葬まで自在に対応する、お別れにふさわしい斎場です。 宗旨・宗派を問わず、どなたさまにでもご利用いただけます。 |  |

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